ファンの皆様
スタッフの皆様
関係者の皆様へ

いつも大黒摩季を応援して下さりありがとうございます。

謹んで、ご報告致します。
去る2021年11月12日金曜日 15時55分、私の母、
大黒美也子が享年83歳にて永眠いたしました。

兼ねてより、母を愛し慕って下さり、度重なる病や車椅子での日々を
ケアし援助して下さった皆様へ、心よりの深謝申し上げます。

近年の母は、20年前の右脳出血による左半身麻痺をかかえ、更には
ステージ4の小細胞肺癌および副腎癌を患いながらも
不器用な娘を独りぼっちにするわけにはいかないから、
輝く姿をファンの皆様と共に見続けたいと、自ら精力的に治療へあたり、
亡くなる数日前まで12月にある私のディナーライブに行くことを目指し
リハビリなど笑顔で元気に懸命に頑張っておりました。

しかし季節の変わり目、膀胱炎から急性腎盂腎炎を起こし、高熱が出たことで
大きな病院での検査と処置をするため待合室で待機している時に
敗血症による呼吸困難となり突然の心肺停止。
献身的な蘇生措置を行っていただきましたが、悲運にも目覚めることは
ありませんでした。

癌により余命二ヶ月と告知されてから、強い意志のもと二年半も生き、
根治はならずとも安定を続け、まだまだ長生きするつもりでいたので
本人が一番驚いていると思います。それが故に、一瞬の出来事に苦しむ
ことなく穏やかな面持ちで、今は私の自宅で大好きな猫達にかこまれ、
安らかに眠っております。

短大を卒業後東京で就職し、そのOL時代に観たアメリカの名ピアニスト、
ヴァン・クライバーンのコンサートに感動し、

「 いつか私がお母さんになって、女の子が産まれたらピアノを習わせて、
この素晴らしい癒しの音を感じながら生きて行きたい。 」と
ほのかな夢を持ち、私が三歳を迎えた誕生日に、アップライトのピアノを
授け、どんなに苦しい時代でも音楽や感性の教育を惜しまず、世界で一番の
ファン一号、最大の味方でいてくれました。

そしてまた、私が自身の病気で子宮全摘をした時は婦人病で長年悩んだ
先輩として誰よりも勇気づけてくれ、離婚後も不器用な娘を独りぼっちには
できないからと、壮絶な癌治療にも自ら立ち向かってくれた、いつだって
自分のことよりも家族や周りを大切にする

『 愛のひと 』

でした。

母を札幌から引き取って10年、ヒット全盛期にはできなかった
“ 仲良し母娘 ”をやり直し、色んなところへでかけ良く食べ良く笑い、
どんな試練も母娘の二人三脚で乗り越えてきたこの日々、私のすべてを
懸けて支えてきた日々に一切後悔はありません。

まだまだ孫たちの成長を見つめていたい、摩季ちゃんが輝く姿を見ていたい、
もしもiPS細胞が脳神経にも届いたらまずハイヒールを履きたい、車の運転
がしたい、ゴルフがしたい・・・

と只々前向きで、朗(ほが)らかに控えめながらも、家族への愛深く、粘り強く想い願いを一途に叶え、昭和〜平成〜令和という3つの時代を強く生き抜いて来た人だけに、突然のサヨナラは只々残念でなりません。

生前よく、「 私は摩季ちゃんみたいな才能や技量はないから、何も残せる
ものがない。あなたは作品が残るからいいわね。だから家族や家庭しか
私にはないの。でもそういうことで言えば、摩季ちゃんは私の最高傑作ね。
体はうまく使えなくても、心は使えるから、あなたが思いきり自由に
音楽が出来るように頑張るから、やめるなんて絶対言わないでね。
だって大黒摩季は私の夢でもあるんだから。 」

皆様が愛して下さる大黒摩季は、真に母の作品そのものです。

母の笑顔見たさに今ある私のすべてを懸けて全力疾走してきた私は、
この突然の喪失感と虚無の中、歌い出す気力がどうしても湧いてきませんが、
母の優しい寝顔を見つめていると、その言葉と朗らかな笑顔ばかりが
思い出されます。

まずは母が喜ぶような葬儀とお別れをし、父が待つ愛しい北海道、札幌、
故郷に帰してあげることに邁進し、母の夢でもある大黒摩季として再び
歩き出そうと思います。

私はママの娘で本当に良かった。

ママから授けられた音楽のもとでは誰よりも幸せです。

ママ、私のために痛くても苦しくても生きてくれて本当にありがとう。

天国で再会したら、やりたかったこと全部やろうね。
来世も私のママになってね。

ファンクラブの皆様には、落ち着いたら母との思い出や写真など
ゆっくり沢山振り返りたいと思いますので、まずは母が煌きながら
天国へ旅立てるようお祈りして頂けますよう、母に会った方々には
思い出して下さいますようお願いいたします。

とりとめもなく長くなりましたが、これまで母に関わっていただきました
すべての方々へ胸いっぱいの愛と感謝を込めて

                        

大黒摩季